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2004年の話です
父を亡くされた経験のある人向けです
朝5:30弟から電話がかかる
闘病中の父が亡くなったとのこと
すこしづつ回復していたらしく
環境がいい病院に移り
土日に見舞いに行く予定にしていた
矢先だった
すぐさま地元は松山へ
タクシーで空港へ
飛行機の中ではずっと泣いてたような覚えがある
始発の飛行機に乗れたので10時前に父の元へ
母を含め親戚がいる病室で父は息をひきとっていた
母から死ぬ直前のことは聞かされた
そしてそのまま通夜へ
息子である私に隠していたのと同様に
会社&友人関係にも隠していたので
訪れる人訪れる人「信じられない」と
自分も頭では判っているのだか体か認めようとしない
いろいろなことを考えては泣き思い出しては泣きを繰り返していた
母も弟も親族も同じだったと思う
土曜はそのまま斎場にてすごし
日曜の午前中にはには遠方
(仙台・東京・名古屋)の親戚も集合
そして告別式
自分は親族代表(喪主は母)だったので確認できてなかったのだが
突然にもかかわらず250人ほどの方にきていただいたらしい
こんな形で父の偉大さを確認することになってしまった
親族代表あいさつは私がしました
今日は父 正信のために御葬会いただきありがとうございます。
皆様のご記憶にもあるとおり父は駆け抜けるように行きいてまいりました。
この用に大勢の方にお見送りいただき満足していると思います。
なぜこのような人生を生きたのか、長男なりに伝えられることを話させていただきます。
それが父が昭和57年に書いた信条です。
私のほうで読ませていただきます
出来ないのではない やる気がない
仕方がないのではない 努力がたりない
時間がないのではない 時間の活用が足りない
逆境にくじけず 順境に高慢ならず
あらゆることを克服する勇気と努力が大切
すべて苦労は私がします
この意志で、人生を生きてきたんだと感じています。
皆様のご記憶に残ることが父の最高の幸せだと思っています。
親族を代表してお礼の挨拶とさせていただきます。
本日はありがとうございました
そして霊柩車に乗る
火葬場にいったときに
「あれ お父さんは?」と不覚にも思ってしまった
おかしな話だ
そして点火
すると母は泣き崩れた
苦楽を共にし父が老後にやろうとしていたことを知っていたから
もうもどってこないこと半ば強制的に突き付けられたからか
今まで我慢していたからなのか
そのまま初七日まで済ませた
去年祖母をなくしこんなにすぐに父を亡くすとは思ってもいなかった
無理をし続けていたから
後半の人生はもっとゆっくり生きて欲しかったのに
ここぞという時に話をきいて欲しかったのに
もうかなわない
でも元気な頃を知っているから心にあるから
あとは皆の心に生き続けることを願う
病気に勝つと思っていたのに
こればっかりは、精神的に強い父でもダメでした
2004年当時の日記より
もう13回忌も終えています